「努力は報われる思考」が招く危険性。公正の落とし穴を考える。
評価制度がうまく機能していない企業は非常に多いのですが、そもそも評価制度は原理的に上手くいかないようにできています。
どういうことかと言うと…
現代社会は、一応、人々は平等、公正であるということになっています。
しかしその昔、身分制度があった時代はそうではありませんでした。
その時代では、身分が高い人が高等教育を受けることも、ある種の職業に就くことも、自分がそうでないことも、「そういう身分だから」と割り切って生きていました。
しかし、身分制度が撤廃されると、すべては努力次第、自己責任になります。
やがて、社会に「世の中は公正なのだから努力をすれば報われる」という価値観が根づきます。
これを社会心理学では「公正世界仮説」と呼びます。
これが、自らの努力を促す方向に作用すれば良いのですが、そうとは限らないようです。
例えば、嫉妬心から、成功者に対し「アイツはアコギな方法で成功した」などと批判を向けるようになるのです。
.
妬みを抱くのは、自分と同じか、同じだと思える者がいる人々である。「同じ人」と私が言うのは、家系や血縁関係や年配、人柄、世評、財産などの面で同じような人のことである。 ーアリストテレスー
.
また、自分が認められない理由を、評価者や制度など、自分以外の要因に不備があると考えるようにもなります。
中には、その鬱憤を他者に向ける人もいます。
通り魔事件の犯人がしばしば「誰でもよかった」という趣旨の供述をしますが、自分が不遇な環境に置かれている原因は社会にあると考えた結果の報復ということです。
自分以外の要因のせいにしなければ完全敗北ということになるのだから、評価制度がうまく機能しなくなるのは自明のことなのです。
では、どうすれば良いのでしょうか。
アホみたいな方法と思われるかもしれませんが、僕は、本人でもなく他人でもなく社会でもない、誰も傷つかない対象のせいにすることが良いと考えています。
「運」のせいにすることもその1つだと思います。
僕のメンターは、僕が業界から評価されずに腐っている時に「運が悪かったな。次、頑張れ」と励ましてくれました。
ある日「どうすれば運は良くなるのか?」と聞いたら、「数撃ちゃ当たる」と言いました。
ビジネスは打率ではなく、一発ヒットが出れば、しばらくはそれで食える。だったら当たるまでバットを振り続けろと言うのです。
なんだか狐につままれたような感覚になりましたが、大切なことは「誰が正しくて、誰が間違っているか?」を特定することよりも、未来に向けての一歩を踏み出すことだと理解したのです。
もし、僕を認めない業界を、ぐうの音も出ないほど鋭く批判したらどうなったでしょうか。
相手も公正世界仮説の住人ならば、「いやいや、お前の自己評価が狂ってるんだよ」と、僕に矛先を向けたことでしょう。
「運のせいにしていたら成長しないのでは?」と言う人もいますが、そもそも公正世界仮説は、努力は報われることを前提にしているので、努力を放棄することはないと考えます。
不合理と思われるかもしれませんが、そもそもの構造が不合理なのですから、それを上手に活用することが「生きる力」というものだと思うのです。
.
※「記事が面白かった」という方は、是非「読者登録」を!読者優先セミナーや無料相談など、登録者限定の秘匿情報が届きます。






