米澤晋也はこんな人

父の後を継いで社長に就任。それは波乱の幕開けでもありました。

私が家業の新聞販売店を継いだのは、24歳の時でした。実は大学を卒業した後、いったんはドラッグストアに就職したのですが、父親が病に倒れたため退社。父の代わりに新聞販売店「共和堂」を経営することを決意したのです。
しかし、その前途は決して明るいものではありませんでした。というのも地元では社名に「堂」がつく二社とともに「三悪堂」と呼ばれていた弊社(笑)。サービスが悪いから、当然評判も悪い。社員のモチベーションが低いうえに、求人をかけても人が集まらない。高い賃金で呼び寄せると賃金でしか動かない人が集まる。固定費がかかる割には、組織として機能していない会社でした。当時は、やっと新人を入れたにも関わらず、その新人が空き巣でつかまるという笑えないエピソードなどあり、もう最悪な状態でした。

若かった私は会社を立て直すために、社員を掌握しようと躍起になっていました。社員を動かすには、社長という権力に頼るとかない。それが手っ取り早い方法だと思っていたのも事実です。しかし、権力をふりかざしたところで、変化するどころか悪循環になるばかり。おりしも95年頃から新聞販売は、成熟期を迎えていました。弊社の業績は低迷する一方。「おまえら、ビール券を持って1件でも多く回れ!」という営業活動に拍車がかかるだけでした。こんな荒い営業では業績が伸びるはずかありません。若かった私も、さすがに「もうこのやり方では限界だ」と思うようになったのです。

運命的な「指示ゼロ経営」との出会い。しかし、さらなる試練が…。

活路を見出すため、私はセミナーや講座などに通い、手当たり次第に経営ノウハウを学びました。そんな中に出会ったのが、指示ゼロ経営の原型となる考えです。それはちょっとした衝撃でした。なぜなら、これまで自分がやってきたことが、すべて逆の発想だったから。「おまえら、やれ!」というのではなく、社員から「これがやりたい」となるような組織づくり。まさに理想的なスタイルだと思い、本格的に取り組みはじめたのが1999年です。指示ゼロ経営に関わるセミナーに参加し、その道の師匠から学び、現場で試しては失敗する、その繰り返しでした。やがて2007年頃から、なんとか「指示ゼロ経営」が機能しはじめたと思った矢先、ショッキングな事件が起こりました。

軌道に乗り始めた、その矢先。ショッキングな出来事が襲う。

ある日、社員から残業の未払い分500万円(過去5年にさかのぼった額)を請求されたのです。当然私は支払っていましたが、労働条件の盲点をついた請求内容でした。その金額の大きさもさることながら、労働の対価としてお金を要求してくる社員がまだいる。そう思うと、これからってときだったので精神的なダメージは相当なものでした。

あ、読んでいて気分悪くなってないですか?
大丈夫?(笑)

その後、さらにショッキングな出来事に出会います。それはある日、たまたま私が出張から早く帰ってきたことでした。休憩室で談笑する社員が、蜘蛛の子を散らすように消えたんです。休憩室のホワイトボードに書かれていたのは仕事のこと。私のいないところで、自主的に仕事の話をしていたのか…。本来は心から喜ぶべきことかもしれません。しかし、社長である私が必要とされないという強い疎外感に襲われたのです。さらに私が現れたことで「社長に聞かれてはマズイ」と思わせた。無意識レベルでは、まだ社員を支配下に置いていたんだ、と気付かされたできごとでした。

社員、地域をイキイキさせる「指示ゼロ経営」の可能性とは?

こうした経緯から、もっと死ぬ気で変えなくてはと覚悟を持ち、さらなるレベルアップを図ることになるのです。その結果、2010年頃から「指示ゼロ経営」が本格的に機能しはじめ、社員が自発的に行動できるようになりました。かつて「三悪堂」の一つであった弊社。それがお客様(各ご家庭)から、うれしいように感謝の声が集まるようになったのです。たとえば元旦に新聞を配ると、ご挨拶のお手紙をいただくこともありました。社員一人ひとりのモチベーションが変わり、地域のお客様との関係が変わる。これは私一人ではできないことだと実感。まさに社員が「自発的」に現場で動いてくれた結果だと思います。

弊社社員が自主的に開催した地域イベントでは、報酬がないのに地域の皆さんが動き出すという、うれしい二次的効果も体験しました。会社をよりよくするために指示ゼロ経営を進めてきましたが、これは組織運営にも応用できると確信しています。しかも、地域の人たちも巻き込んで、ともに成長できるきっかけになる。弊社のような地域密着の中小企業には、業態すらかえてしまう可能性もあります。「指示ゼロ経営」は、社員一人ひとりの個性を尊重することで、クリエイティブな能力を開放することにあります。今後はこのノウハウを広め、自由でイキイキとした社員や地域の人々増やしたいと考えています。